CREATOR FILE Vol.10(Interview ver.)

デネガ企画

鳴海一行(なるみ・かずゆき)さん

 


 

受け継がれた「自由に楽しめる場所」

 

土手町のメインストリートから少し外れた、物静かな環境にある美しいレンガ壁の建物。「スペースデネガ」(以下:デネガ)は美術作品の展示会やライブなど市民に幅広く使われている弘前のレンタルスペース。その企画・運営を行う鳴海一行さんに、30年を超えるこれまでの歴史と、舞台の裏側から見える景色について伺った。

 

 

デネガの始まりは1983年。父親である故・鳴海裕行さんは開業医を営みながら、趣味の演劇鑑賞が地方でできる場所がほしいと、仲間たちの支持・応援を得ながら完成させた建物。病院の跡地を利用して作られた外観・内観は裕行さん自身のプロデュース。札幌の建築家が設計したレンガ壁の自邸を雑誌で見て一目惚れし、わざわざ現地まで赴き実物の確認と話を聞いてから設計をお願いするという熱の入れようだった。

 

「お酒を飲みながら、自由に楽しめる場所を作りたいというのがデネガの始まりだった」と一行さんが話す通り、公共施設では難しかった環境作りや演出なども可能にし、大衆演劇など芝居小屋として当時はよく使われていたという。

 

賑わいをみせていたデネガだったが、裕行さんが完成から1年も待たずして他界してしまい、その後は母親の故・弘子さんがその意思を継ぐことになる。

 

▲デネガ入り口付近のレンガには故・裕行さんの名前が

 

5人兄弟の2番目に生まれた一行さんは、学生時代はバンドブームの到来で音楽に興味を持ち、「遊び呆けていた」と当時を振り返るが、デネガができた頃から姉と一緒に父や母の手伝いをしていたという。卒業後はコックの見習いとして市内のホテルやダイニングバーで勤めながら、デネガで音響や照明を担当。22歳の頃に従業員としてデネガに務めることになり、裕行さんの意思を継いだ仲間たちからのノウハウも学び、母の弘子さんを支えていた。

 

2015年に長年経営を務めていた弘子さんが他界すると、一行さんがデネガの3代目の代表に。「若い頃は自分がここを継ぐとは思っていなかった」と話すが、手伝いをしていた頃から舞台の裏方に面白みを感じていた一行さんは、両親が繋いだ「自由に楽しめる場所」という想いを継ぎ、帰省した弟と一緒にデネガの運営を始める。

 

 

昔は演劇が中心だったデネガの使用用途も、時代が移っていくにつれ弘前の芸術文化も多様化し、美術の個展やグループ展、バンドやクラシックのライブなど、近代美術からサブカルチャーまでジャンルが多岐にわたっていく。「裏方として主催者がやりたいことを実現させたい」という一行さんは、一貫して自分から主催者に提案や強要はしない。「ただ、やりたいということがあと一歩でできるのに『自信がない』と迷っている人がいれば、客観的な意見を言うこともある。背中を押すことができれば」と話す。

 

 

企画・運営だけでなく、設営や音響、照明など必要とあれば何でもやる一行さんは、「主催者もお客さんも楽しんでくれて、イベントが無事終わる。帰りの車の中でほっとする瞬間が一番好きかも」と笑いながら話す。「自由に楽しめる場所」という想いは、人や時代が変わっても文化の街・弘前で生き続けている。

 

▲レンガ壁に付着する白い粉状のものは雪ではなく「あく」。1983年から変わらない外観はデネガの歴史を物語っている

 

 

取材 文・写真:下田翼